「跳ね馬」は牛だった

中郷区岡沢から見た跳ね馬
中郷区岡沢から見た跳ね馬

馬の雪形

 

 全国に馬の形をした雪形はたいへん多い。

 一番知名度があるものとしては、長野県北アルプスの白馬(しろうま)岳に現れる「代かき馬」だろう。

 この雪形が山名ほか、村名の白馬(はくば)の由来にもなっている。代かき馬の雪形が出る「代馬(しろうま)岳」が、地図作製の際に「白馬岳」と当て字され、さらに昭和31年の合併で「白馬村」が誕生したのだった。

 白い馬ではなく、黒い馬の雪形なので初めて見た人は驚く。白馬(しろうま)岳に向けて駆け上がるダイナミックさはあるが、馬というにはリアルさに欠ける。

 雪形は春の農耕開始の目安にしたため、牛や馬の呼称が多い。

 「駒ケ岳ファンクラブ」が2009年11月に創立20周年記念として発刊した冊子「全国の駒・馬の雪形」によると、国土地理院の2万5000分の1の地図に記載される駒ケ岳は18山あり、さらに宮城県と秋田県、岩手県の3県にまたがる栗駒山(くりこまやま)や越後山脈北部にある飯豊山(いいでさん)など、ほぼ駒ケ岳とみていい7山を加えて、計25山があるという。

 また駒ケ岳という呼称ではないが、馬という呼称が付いた雪形は、県内に54あり、全国一である。2位の長野県は32なので、新潟県が圧倒的に多い。これは、新潟が米どころで朝夕に山を仰ぎみているからではないか。

 上越の近くだと、菱ヶ岳の「馬」や、糸魚川市にある駒ケ岳の「跳ね子馬」があるが、形の美しさでは妙高山の「跳ね馬」は全国でも一級品だと思う。

 

「跳ね馬」は上越地方のシンボル

 ところで妙高山の「跳ね馬」であるが、正確に言うと、妙高山の外輪山である神奈山(1909m)の北東側中腹に出現する。上越市からは妙高山(2454m)と重なって見える。

 ちょうど上越地域で一番人口の多い、旧新井市の市街地や上越市の中心部の広い範囲から見え、それも妙高山のど真ん中に躍動感あふれる馬の姿が出現するので、まさに春の妙高山を象徴するシンボルになっている。

 今では季節の風物詩として、マスコミに取り上げられることも多く、妙高市出身の関取、霜鳳関の化粧まわしの図案や、「はねうま大橋」の名称、福祉施設「はねうまの里」の呼称など広範囲に登場し、上越地域のシンボルとして定着した。

 

雪形の呼称は「跳ね馬」だけではなかった

 だが、昔から「跳ね馬」という呼称に統一されていたわけではない。今のようにマスメディアが発達していなかったので、各地で違った呼称があった。

 「跳ね馬」という呼称は、上越市在住の児童文学者、杉みき子さんが「朝やけまつり」(昭和50年)で、少女のかわいがっていた馬が、冬に跳ね馬になって現れる物語を書いた。エッセーなどで数多く取り上げたことも知名度を高めた。

 「跳ね馬」という躍動感ある呼称が、ほかの呼称を一掃したわけである。

 2003年に上越市から妙高高原町(現妙高市)までの各市町村で、農作業中の高齢者40人に声をかけて聞いたところ、「跳ね馬」の認知度は約9割に達した。

 車社会の発達により、旧妙高村や旧妙高高原町の人も上越市、新井市から見える跳ね馬の姿を知っている人が多く、「跳ね馬のことを子どものころは、何と呼んでいたか」の質問にもとまどいはなかった。

 上越市飯田、妙高市(旧新井市)五日市、上越市中郷区(旧中郷村)西福田など広い地域で「跳ね馬」と呼んでいる。妙高市(旧新井市)下十日市で「春駒」、上越市中郷区(旧中郷村)岡沢、妙高市(旧妙高村)関山で「馬形(まがた)」、妙高市(旧妙高村)葎生で「馬形(うまがた)」の呼称を確認した。地域は特定できなかったが、「跳ね駒(こんま)」と呼ぶ人もいた。

 

「馬」ではなく「牛」だった

 ところで、旧高田藩士が編集した「越後頸城郡誌稿」(明治34年刊)に「牛形残雪」のことが出てくる。「山腹ニ例年牛ノ走ル形ヲ顕ス。明光山(妙高山のこと)ノ牛形トテ当郡七不思議ノ一タリ」とある。

 

 登山家の小島烏水が書いた「雪の白峰」には、「妙高山の農牛」として出てくる。これは明治41年発行の雑誌「山岳」に発表されたものである。

 

 両者とも馬ではなく「牛」である。妙高山で誰がみても分かる雪形は跳ね馬しかないので、もしかしたらこの「牛形」は、跳ね馬のことではないかと推測した。

 当時、農耕には牛が多く使われていたからである。一番身近な動物に見立てる方が自然だからである。

 そう思って、妙高山の跳ね馬を毎日見ていた。そうしたら5月に入ったゴールデンウイークのころである。雪が次第に解け馬の体が太ってきて、頭には角がはえ、背中が高く盛り上がってきた。馬というより牛の形に近く見えたのである。

 ちょうどそのころ運命の出会いがあった。上越市十二ノ木の横山清次さん(当時90・故人)が「跳ね馬のことを、私が子供のころは牛と呼んでいた。牛を知っている人なら、馬ではなく、牛の姿ということが分かるはず。少なくとも川東では跳ね馬でなく、牛だった」と証言してくれた。

 その後も牛という呼称が残っているか探していたが、横山さん以外はなく、もう滅んでしまったかと諦めていた。

 ところが、2010年5月1日の調査で、上越市中郷区岡沢のH・Oさん(81)から、「子供のころは跳ね馬のことを牛形と呼んでいた」との証言を得ることができた。また、80歳の男性も「牛形」の呼称を語ってくれた。(この中郷区岡沢という場所は、跳ね馬が一番大きく、ど真ん中に見える場所である)

 これで「越後頸城郡誌稿」に書いてある「牛形」は「跳ね馬」とイコールであるとの確証がとれた。

 ところで、上越市出身の児童文学者、小川未明の童話に「牛女」という作品がある。

 この作品は妙高山が舞台だとされている。

 ある村に「牛女」と呼ばれる体の大きな母が、男の子と2人で暮らしていた。母は男の子をたいそう可愛がっていたが、病気で死んでしまった。死んだ母を恋しく思う男の子は、春になって山肌に黒く浮き出た牛女の姿を見る。それで、村の人々は「牛女が子供のことを心配して姿を現したのだ」と言い合ったという話である。

 この牛女の姿が山に現れたというのは雪形を指し、当時は妙高山の雪形の代表的呼称である「牛形」をヒントにしたのではないかと思う。

 

小川未明原作の童話「牛女」
小川未明原作の童話「牛女」